「じゃあ、多数決で決めましょう」というやり方で何かを決めた事は、誰しも経験した事があるかと思う。学校などでも、多数決を採る事は多々あるだろう。
多数決で決まった事は、その決定を望む者が最も多いという事で、つまりの所は功利主義的考えのもと、大多数がこう望んでいるんだから少数は我慢しろという「最大幸福」の事に他ならない。そしてこの方法は、その「大多数」が全体的に正しい方向に進んでいる時は機能するだろうが、それが間違っている場合は実にタチが悪い。今、自分たちが抱えている問題の大多数は、この一見とても素晴らしいと思える方法が実は全く持って機能していない事に、一つ原因があるのではないだろうか。
民主主義と言われる国では、政治家は投票によって選ばれる。そして選ばれた政治家は議会で、選んだ者達の代弁を行う。これは一見とても合理的で、民衆の意見を政治に反映させやすいと思える。しかし先の多数決の例えの様に、その多数の意見が間違っている場合は、その結果が全体をとんでもない方向へ動かしてしまう。(補足: この場合の「正しい」や「間違い」は、その社会が継続的に繁栄するかどうかというもの)
それでは今の日本の現状を見てみると、どうだろう。まともな政策が行えないのは、まさにこの多数決の原理による弊害ではないのだろうか。
たとえば団塊の世代の問題。彼らがまとめて定年し年金生活に入ると、医療も含め、今の収支ではとても賄いきれない事は誰にでも分かる。そこで増税という対応をするのだろうが、これは世代が異なる者にとってはたまったものではない。それでも採決され実行されるのは、それが多数決によって決められるからである。彼らの票は、団塊の世代が持っている。
同じ世代であれば、多かれ少なかれ、同じ様な問題を抱える。その問題を抱える世代の人数が多ければ、それは「民衆の力」という名の「多数決」によって決定できる。その決定によって起こる弊害は、多数によって打ち消される。つまるところ、多数にさえなればそれが正しかろうが間違っていようが通ってしまうという所に、今の民主主義、多数決の原理の限界があるのだと思う。そしてそれはすっかり根付き、数の原理ですっかりグダグダになったのが今の日本ではないだろうか。
よく「多数派工作」などと耳にするが、まさに愚の骨頂だ。永続的な社会のために何がベストなのかを論議しても、結局はそれを決定する所で数で負ければ、何も出来ないのが今のシステム。だから結局、多数派を作らなければいけないとなると、どうしても問題の本質からは逸れていくのは当たり前だ。いくら事業仕分けだとパフォーマンスしても、何も変わらないのはこの為だろう。(そもそもハナから変えるつもりのない、ただのガス抜きだと思うが)
今後も今のまま進めば、我々の世代は、彼らが作った負の遺産の中で生きていく事になる。責任を何一つ取らない彼らの尻拭いを、誰がしたいと思うだろうか。でも彼らは言うだろう、「こんな豊かな日本にしたのは、誰だと思っているんだ。我々が休まず働いてきたからじゃないか」と。
数十年先の需要を見越して植えたスギやヒノキは、輸入木材の価格に負けて放置。おかげで山は荒れ放題で花粉症のオマケ付き。減反やら役立たずの農協、労力不足で遊休農地だらけ。さらに鹿やイノシシもやり放題の増え放題。川は護岸工事で、魚はサヨウナラ。ついでに汚水もどうぞ。
かたや、イケイケゴーゴーで何だか分からない投資をしまくり、借金だらけの銀行。不良債権のツケは税金でどうぞ。結局増えた負担をどうにかするために、日夜利益を上げようと必死に残業するサラリーマン。でもデフレ。それでもなけなしの金で、タダの紙切れの米国債を、毎年せっせこ買います。だって怖いもん。で結局借金が1,000兆円を越えちゃいました。てへ。
彼らが作ったという豊かな日本は、こんな国だ。これが胸を張って子孫に残せるシステムですかい。
結局、どこかでNoを言わなきゃいけない。公共工事にしたって、組合にしたって、多数に向けてNoと言えないからムダな事を延々と繰り返すんでしょう。結局人件費の問題なんだろうけど、もう1つの事をずっとやって暮らせるという時代は終わったんじゃないかな。もういいでしょ、道路とか、建物とか。他にやる事が山ほどある。左遷されようが何されようが、多数に向けてNoと言っていかなきゃ、つぶれるのは時間の問題だ。
共倒れするのか、方向転換するのか、まさに今がターニングポイントのような気がする。
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